37キリギリスの誓い


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ピエールが表参道の歩道橋から逃げ出した後、
美鈴は語学学校へ講師の仕事に戻った。

 

秋学期の試験が近いので、生徒たちは真剣である。
通訳科は学期ごとの試験の成績により、
上級クラスに進級できたりできなかったりする。

進級できるのは、クラスの1割から多くても2割。
上級コースになればなるほど、進級がむずかしくなる。

フルタイムで仕事をしながら通う者は、勉強時間の確保がきびしく、
進級がむずかしくなることが多い。
そのため仕事を辞めて、一時的に通訳の勉強に専念したり、
アルバイトをしながら、という道を取る生徒もいる。

本気で通訳になりたければ、自分に残された時間をにらみながら
必死に勉強するしかないのである。


「質問はありますか?」


美鈴の呼びかけに、さっと幾つもの手が挙がる。
無言で授業の終わりを待つような、消極的な雰囲気はない。

次々と質問に答えていると、休み時間ぎりぎりになったので


「残念ですが時間が来てしまいました。
 これ以上の質問は、講師部屋の方へお願いします。」


美鈴が大急ぎで、教材を片付け始めると、
あきらめたように生徒たちも、ようやく立ち上がりだす。

生徒たちの熱心さに、歩道橋で感じた居心地の悪い不安が消え、
現実的な気分に切り替わることができた。

明日は朝から、ビジネス通訳の仕事が入っている。
今夜はもういちど資料をさらって、万全の準備をしておかなければ。

 

日はとっくに落ちて、あたりは暗くなり、
ロビーには、夜のクラスの生徒たちが入ってきている。
スーツやジャケット姿が目につき、
昼間のクラスに比べて男性の姿も多い。

美鈴は講師部屋の先輩たちにあわただしく挨拶をし、
ロビーに降りて、急いで外へ出ようとすると
すっと影が寄って来た。


「おつかれさま」


はっと振り返ると、田山がコート姿で微笑んでいる。

黒いロングコートを着ていると、ふだんよりさらに背が高く見え、
大学の準教授と言うより、切れ者のビジネスマンのようだ。


「・・・・」


ここで会うとは思ってもいなかったので、一瞬ぽかんとする。

こんなに目立つ人なのに、さっきはまるで気配を感じなかった。
急いで部屋に戻って、すぐ資料の読み込みを始めようと
そればかり考えていたせいかもしれない。


「忙しそうだね。」


だまったままの美鈴に低い声が並んできて、
一緒にスクールのロビーを出る。


「今日は確か授業があったかな、と思いだして、
 近くまで来たから、ちょっと寄ったんだけど、
 タイミングが悪かったかな。」

ううん、そんな・・・。


美鈴は首を振って否定したが、とっさに言葉が口から出ない。

スクール前の歩道で立ち止まってしまうと、顔見知りの生徒たちが
ちらちらこっちを見た挙句、軽く会釈をして通り過ぎて行く。


「あした、ビジネス通訳が入っていて、
 これから準備をしなければならないんです。」


少し憂鬱な調子で、ようやく美鈴が言うと、
田山はうなずいて美鈴の背中にぽんと手を当てた。


「一緒に食事でも、と思ったけれど、時間がなさそうだね。
 それなら美鈴さんの部屋まで送って行くよ。」

ごめんなさい。


美鈴は傍らの姿を見上げながら、つぶやいた。
田山は首を振って微笑むと、さらに背中を押す。


「いや、気にすることはない、仕事なんだから。
 さ、行こうか。」


穏やかな声と、背中に当てられた温かい感触。

コートの胸元から、すでになじんだ香りがふわっと漂ってきて、
この人は紛れもなく現実の男性なのだ、と強く実感する。

暗さをさいわい、美鈴から一歩近づいて田山の腕に手をからませた。
頭上で、田山が意外な表情を浮かべるのが見える気がしたけど、
腕の堅さやコート越しのぬくもりを、どうしてもじかに感じたかった。

不意に頭のどこかで、さっきの白い蝶がちらつく。
誘われるように歩道橋から空中に突き出た、ピエールの半身も。


違う!
この人は化けものなんかじゃない。


心の中の叫びに応えるかのように、田山がそっと背中に手を回し、
寄り添って歩き出すと、前方から何となく視線を感じたので、
目をやると、コート姿の椿だった。

あいさつしようと体を向けかけたら、椿の方から身をひるがえし、
顔をそむけて、さっとすれ違って行ってしまった。
田山にも見えたらしい。


「先日会った、美鈴さんの先輩?」

「ええ。」


ちらりと振り返ったが、もう後姿は見分けられない。

 


混んだ地下鉄の車内を、身を寄せ合うようにしてやり過ごす。
話ができる状況ではなかったけれど、一緒にいられるだけで良かった。

仕事用の重いバッグを田山が持ってくれ、
美鈴は田山のコートをしっかりつかんで、
人ごみに流されないようにした。

途中で一度乗り換え、新宿区のはずれにある美鈴のマンションを目指す。
ようやく混んだ電車から降りると、やっぱりほっとした。


「ちょうどラッシュのピークだったね。」

「ええ。」


美鈴は持ってもらっていた、バッグを返してもらった。
田山も自分のショルダーを持っているから、両手をふさぎたくない。

案の定、田山は空いた手を美鈴の背中に当て、
ゆるい上り坂を歩きながら、マンションへ向かう。


「美鈴さん、晩ごはんはどうするの?」

「冷蔵庫にあるもので、何とかします。
 あ、シリアル用の牛乳だけ買って行かなくちゃ。」


途中のコンビニで、牛乳と野菜ジュースを買う。

いつもなら、コンビニ限定スイーツをひとつ買うのだが、
田山の前であれこれ選ぶのがためらわれ、買うのをやめた。

田山は美鈴の買い物を、見るともなく見ていたが、
何となく見透かされているみたいだ。


「ほかは・・・いいの?」


田山の顔を見て、スイーツの棚を見て、もいちど顔を見ると、
何かをかみころしたような顔をしている。


んもう!


観念して、さっと黒蜜ときなこのロールケーキを取る。
田山が、くるりと後ろを向くのが見えた。

レジを済ませて店を出ても、田山はわざとらしく知らんふりをしている。


「し、仕事の準備が終わった時の、脳へのごほうびに買ったんです。」


自分から無用の言い訳をすると、田山がついに笑い出した。


「ごほうびがあると頑張れるからね。
 僕もごほうびが欲しかったな。」

「何か欲しいスイーツがあったんですか?」

いやいや・・・。


田山が頭を振りながら、笑った。


コンビニから美鈴のマンションはすぐである。

着いてしまうのが惜しくて、少し歩みをゆるめたが、
それでもやっぱり、すぐに部屋の前に着いてしまった。


「じゃあ、頑張って・・・」

「すみません。でも送ってくださって、ありがとう。」

「いや。僕が一緒にいたかったから・・・ね。」


優しい声で言われると、もう気分がめげそうになり、
「どうぞ、中へ」と言いそうになる。
が、そんなことをしたら、明日、
大変なことになるのは分かりきっていた。

田山は、奥歯をかみしめている美鈴のほおに軽く手を触れ、
しばらく顔を見ていたが、ため息をつくと


「あなたがいないと寂しくて仕方がない。
 早く、僕のところに来て欲しい。」

「真さん・・・」


田山は淡く微笑むと、美鈴の背中を抱き寄せて、
ぎゅっと一瞬だけハグをし、


「おやすみ」


手を振りながら廊下を戻って行った。


おやすみなさい・・・。


愛しい足音が遠ざかって行く。
すぐにも追いかけたくなるが、ここは我慢である。

後姿を見送ったあと、気持ちを切り替えようとしばらく立ち止まり、
くるりと体を向けたとき、何かが目に入った。

廊下の照明の横に、小さくぶら下がっているもの。
ようく目を凝らすと白い蝶だ。

昼間、ピエールの目の前を飛んでいた蝶は、
白い羽をちらちらと羽ばたかせていたが、
こちらの蝶はさかさまになって羽根を閉じ、
じっと止まっている。


偶然かもしれない。

外からちょっと紛れ込むこともあるだろう。
ここに蝶が一匹いたって何の不思議があるのか。

だが見れば見るほど、昼間の蝶に似ているように思えてくる。

 

美鈴は廊下から自分をひきはがすようにドアを開けて、
すばやく部屋へ入った。

まずは仕事、考えるのはその後。

だが、早急にこっちの問題も考えなくてはならない。
このまま気づかないふりをすることは、もうできない。

虚空へといっぱいに伸ばされたピエールの手が、
またも脳裏によみがえる。


どうしたらいいのだろう。
誰に訊いたらいいかしら。


美鈴は沸きだしてくる疑問をふりきるように、
資料の山へと取り組んでいった。

 

 

 

5 Comments

  1. Annaさんお早いUPありがとうございます^^
    田山さん登場!!(^◇^)
    黒いロングコート?・・・確かにそうとうカッコイイです。
    しばし見とれてしまう美鈴さんの気持ち、よ~~~くわかりますよ(*^^)v
    そんでもって
    >「あなたがいないと寂しくて仕方がない。
     早く、僕のところに来て欲しい。」
    な~~んて言われちゃったら・・・っ(≧ω≦)ノノノ
    でも美鈴さん、エライです!
    どんなに大大大好きな彼のお誘いだって、ちゃんとお断りして
    お仕事頑張ってますね!^^
    それだけ通訳のお仕事って肉体的にも精神的にもハードなお仕事なんですね(ーー;)
    ロールケーキ食べて頑張って!
    でもお仕事終わったら、いい子で我慢してる田山さんにもご褒美の“スイーツ”あげてね^m^
    ところで白い蝶のこと「誰にきけばいいかしら」って、誰に聞くつもり?
    田山さん?
    なんて聞くの?
    「真さんのお使いですか?」って?
    う~~~ん(=_=) 次回がとっても気になります・・・

  2. あんなちゃん
    こんなに早くUP嬉しい!!
    でも、こんな田山さんの思いがひしひしと切ないセリフを聞かされてしまうと、
    ほんとにもう胸がキュンとなってしまって、
    またすぐにこの続きを知りたくなってしまうじゃないの\(^O^)/
    すぐにまた教えてね、この続き♪
    しかしなぁ~~
    いったいこの様々な超常現象(?)
    どう解釈したらいいのか・・・
    このあと明らかになるとしても、それはいったいどんなふうなのか、
    ほんと、気になるところです。
    果たして田山は化け物か?ってところになっちゃうこのお話。
    この先はどうかそんなに待たないでいいように、よろしくお願いします!
    ほんとに今日の田山さんに胸をギュッと捕まれちゃったので。

  3. こんばんは!
    気が付くとソファで寝ちゃってまして、
    「げ?午前3時?」と思ったら、11時15分でした(ボケぇ)
    ★ちのっちちゃん、
    虫が出てくるのにお付き合いありがとう。
    黒のロングコートって、確実に男前を上げますよね。
    特に背の高い方はぐっと立派に見える。
    行先は「これからお通夜で・・」なんて場合もあるけど(笑)
    >どんなに大大大好きな彼のお誘いだって、ちゃんとお断りして
    お仕事頑張ってますね!
    そうですねえ、美鈴だってそんなのおっぽり出して、
    田山とべたべたしたいんでしょうが、
    通訳はあらかじめインプットしてないもの(つまり勉強してない単語)は
    絶対に出ない仕事で、それは即、満座の中の大恥と
    場合によっては二度と仕事が来ない事態をも招きかねない。
    いちど、冷や汗を経験すると、
    その恐怖が愛する男の、甘い誘いをも遠ざける(笑)
    >ところで白い蝶のこと「誰にきけばいいかしら」って、誰に聞くつもり?
    あ~ん、考えるとそればかり考えちゃいそうなので、
    いったん保留です!(by 美鈴)
    ★しーたちゃん、
    考えようによっては、ちょび気持ち悪い田山くんをひいきしてくれて、
    ありがとうです(笑)
    田山くんみたいなのは、真に自分を理解してくれる人が
    すごく少ないので、いったん「これ」と思い詰めると
    なかなか執着心があるのかもです。
    >果たして田山は化け物か?ってところになっちゃうこのお話。
    ホントですねえ。
    どこまでが「化け物」で、どっからが「特異能力者」か、
    その辺が難しいところだと思います(ごまかし、ごまかし・・・)
    >すぐにまた教えてね、この続き♪
    そうしたいです。
    でも連休とか年末とか、ほんっと用事が多くて、
    (自分も遊んでるんだけど)すぐ一週間経っちゃうんだよなあ。

  4. 早い更新!やったー!と喜んで読みました!田山さんとうとう登場!!うれしいです!優しいですよねー。女性の仕事に理解があるというか、仕事の現場で出会っているからなのか、自分の気持ち押し殺してまで我慢して、彼女が仕事で困らないように考えてくれてるかんじですもんね。ほんとはお互いいっしょにいたいのに、ってかんじも伝わってきます。白い蝶は完全に田山さんですよ。田山さんに操られている虫ですね。監視役です。ヤバい時には助けに入る素早い行動力。田山さんが虫の化身だとまた話がややこしいので、超能力者なのか偶然なのかあたりで不明瞭だけどなんか怪しい。っていうのもありですよ。更新ますます楽しみにしています!

  5. さるうみさん、おいで下さってありがとう!
    コメが入れにくくて、すみません。
    重複したコメはこちらで消せるので、どうか恐れずに。
    私も「エラー」と出て、2回アップしちゃうこともあります。
    dalは、スパムだの、攻撃だのが入りにくくしてあるのですが、
    代わりに普通のアップや、レスがしにくい時があります。
    どうか、お許しを。で、めげないでくださいませね。
    >自分の気持ち押し殺してまで我慢して、
    >彼女が仕事で困らないように考えてくれてるかんじ
    ふっふっふ、そりゃあもう、通訳が恥かいた場面を
    見たことがあるせいかも知れません(笑)
    大事な人をそんな目に遭わせたくないですよね。
    そのために自分が我慢を強いられるのは、ちょっとヤだけど。
    >田山さんに操られている虫ですね。監視役です。
    監視役。ふむ。
    これが付いてるから「うれしい!守られてる!」
    と感じる女性は少ないと思います。
    「う、見張られてる。ぞ・・」の方が多いんじゃないかな。
    まだ妻じゃないんだから、やり過ぎは・・・ねえ。
    更新、なるべく開かないように努めます(汗)

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