逝く春に

 

 

 

 ああ、もうだめだ。

 

今日一日、どこにいても、一滴もこぼれなかった涙が、

体の奥からつうんとわき上がって、

目からあふれ出てきそうだった。

 

あわてて、スーパーのカゴを戻し、

店の外に走り出ると、裏手の駐車場に向かった。

 

ぬるく、何かがたちこめたように息苦しい春の空気だが、

風が起ると、目の前の白い景色が揺れて、

柵越しの桜の木から、花びらがどうっと枝を離れる。

 

桜吹雪・・・。

 

そうだ、少し桜でも見て来ようと、あの部屋を出て来たのだった。

 

病室の高い窓越しに見る桜は、ほんのり薄紅色の白い雲の連なりだ。

 

緑色を増してきた、木々の間に、白い雲が挟まると

桜の並木があるのだと、わかる。

 

 

「さくら・・見える?」

 

 

もうあまり口を利くこともできなくなった姉が、

かすかな息をしぼり出して、わたしに問う。

 

 

「見えるわよ。

 今日は外が曇っているけど、桜が満開だから、

 そこだけ白く霞んで、すぐにわかるわ。

 

 あの木の下に、人が大勢居るかもね」

 

 

わたしの答えを聞くと、かさかさに乾いた顔の中、

唯一、まだ濡れている目を動かして、

窓の方を見やり、花曇りの空を見つめるのがわかる。

 

寝たきりの姉の場所からは、地上の桜は見えまい。

 

それでも、空に花びらの気配でもと思うのか、

姉の視線は、じっと窓から動かない。

 

姉のささやかな終の病室には、洗濯した寝間着がいくつかと

ごく小さな容器に入れた果物、吸い飲み、

濡らしたタオルなど、細々したものがあるけれど、

ここに1時間も居れば、片づけるものもなく、

すぐに時間が滞ってしまう。

 

 

「水・・・・」

 

「ああ、お水ね。

 待ってて。今、冷たいのを入れてあげる。」

 

 

小さな冷蔵庫に入ったミネラルウォーターを吸い飲みに移し、

姉の口元に当てると、ゆっくりと飲む。

 

ごくゆっくりと姉の喉が鳴ると、わずかに顔を背けて、

もう要らないと意志を伝える。

 

 

年の離れた姉だった。

 

故郷の母が逝ってからは、文字通り母代わり。

父と妹の私の面倒を見ていたが、短大を卒業すると

だまって東京の会社に就職を決め、たった一人で上京していった。

 

残された妹のわたしは、父が心配で中々家を離れなかったが、

父にガールフレンドのような存在ができたらしいことを感じてからは、

進んで家を出ることを考え始めた。

 

父から仕送りをもらうことにして、

東京の大学への進学を決めてからは、

姉のところに転がり込むことしか考えていなかった。

 

以来、10年、ケンカしながらも二人でずっと一緒に暮らして来た、

父が再婚してからは、二人っきりの家族にも思えて、

お互いをうっとうしく思いながらも、

それぞれ独立することができずに居た。

 

 

その姉が行ってしまうかもしれない・・・。

 

いや、もうじき、確実に行ってしまう。

姉の砂時計に残った砂は、目で何粒かと数えられそうに減っている。

 

減り出すと、さらに加速したように、砂の落ちる速度が速くなる。

 

 

 

姉が眠ってしまったのを確認してから、病室を出た。

こまごまとした買い物がある。

 

乾ききった姉ののどをかすかに潤してくれる、果物の一切れ。

 

昨日はみかんが食べたいといい、

今日はリンゴが食べたいと言っていた。

 

リンゴをひとつ買って、小さなおろし器もカゴに入れる。

 

他にも、自分のために何か体によい煮物でも作らなくては。

2週間ほど、外食と買ったものだけで済ましていたら、

胃が痛くなり、体がだるくなって、風邪を引いてしまった。

 

わたしが寝ているわけには行かないのだから、

何か食べなくてはならない。

例え、全く味がしなくても、

砂をかんだような舌触りにしか感じられなくても・・・。

 

ちょっと考えた末に、青々とした蕗が積み重なっているのを見て、

これを煮てみようとカゴに入れた。

 

蕗には、まだ青い春の息吹が感じられる。

そのエネルギーをもらって、姉のところに戻りたい。

 

 

 

 

蛍光灯が白々と光る、明るいスーパーの店内で、

ありふれた、Jポップのメロディが流れていく。

 

特に好きだった歌と言うわけでもないのに、

その歌を聞いた途端、胸の奥がぐうっと詰まり、

頭の後ろから何かがせり上がって来るのを感じたのだ。

 

 

病室でも、病院に通う車の中でも、

姉の居ない部屋で、ひとり月を見ていても

何故か泣けなかったのに。

 

 

 

 

 

花曇りの駐車場にたどり着くと、さっきの胸の痛みはなだらかになり、

あふれそうだった涙は、ほんのわずか、目の面を濡らしたに留まった。

 

ただ、目の前の桜から、

見る見る花びらが奪われて行くのが痛ましかった。

 

これも命のひとしずくにちがいないのに、

こんなにも潔く、大量に、母なる木の元を離れて散って行く。

 

この木が丸裸になって、青い葉が噴き出したら、

姉の命も散ってしまうのだろうか。

 

命の砂時計よりもはっきりと、

桜の雲が色あせて行くのが、目の前に突きつけられる。

 

それでもまだ豪華に枝を広げて、

空にむかって、無数の花びらを誇っている。

 

 

 

買い物を途中で放り出して、

桜の元へと歩いてみる。

 

姉の元にいると、一刻も離れてはいけないような気がするのに、

いったん病室を離れると、またあの空間に戻りたくなくて、

ついあてどなく彷徨ってしまう。

 

 

 

花の季節。

こんなにも華やかな彩りに満ちた時なのに、

あまりにまぶしくて、誇らしげに咲く花の命を正視できない。

 

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