08 アンジェラ

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 翌朝、僕はめずらしく寝坊した。

たいてい僕が明よりも早く起きるのに、

今朝は、明が寝室をバタンと言わせた音でやっと目を覚ました。

 

「隆ちゃん、いつまで寝てるんですかって、ママが言ってたよ。

 いつまで寝てるの?」

 

いつも自分が言われている台詞を兄に向かって言うのは

少々得意な気分なのかもしれない。

明は元気でうれしそうだった。

 

 

あたりはとっくに明るくなっている。

もう窓のカーテンが開けてあり、朝陽が差し込んで、

メキシコの冬らしい、ぼんやりとした温かさが漂っている。

 

明はまだパジャマのままで、

クローゼットから適当に服を出し、着替え始めている。

 

僕はやっとのことでベッドに起き上がり、床に足を下ろした。

足の裏にひやりとした感触を覚え、ぶるっと体が震える。

 

 

昨夜の夢・・・。

アンジェラがベッドのそばに立っていた夢。

 

 

奇妙な現実感があり、ちゃんと眠った気がしなくて、

まだ夢が続いているような気がする。

 

上掛けをはねのけて立ち上がろうとすると、枕元に何か置いてある。

クリスマスプレゼントは、もうもらった筈なのに何だろう。

 

 

手に取ってみると、最初にアンジェラにあげたビーズの箱に似ている。

いや、間違いなくあの箱だ。

何年も子ども部屋にあったので僕はよく覚えていた。

 

急いでプラスチックケースを開けると、中にはビーズではなく、

アンジェラがいつもぎゅっと手に握りしめていた、

あのきれいな金の十字架が納められている。

 

どうして!!

 

中から十字架をつかみ出すと同時に、僕は寝室の扉を開けて、

階下にかけ降りて行った。

 

 

階段の下でモニカが「ブエナス・ディアス」と声をかけてきたが、

返事ができないまま、キッチンに駆け込む。

 

「ママ!」

 

キッチンに母の姿を見つけるとすぐに、手の中の十字架をかざした。

 

「僕のベッドにおいてあった!今見つけた!

 アンジェラは?」

 

母は僕の方へゆっくり近づいてくると、僕から十字架を受け取って

てのひらに広げた。

 

いつか見せてもらったよりもずっと華奢できれいに見えた。

案外と価値のあるものなのかもしれない。

 

十字架にはめられた赤い石が、ガラスとは違う輝きを放っているように思える。

 

「アンジェラは?」

 

僕はもういちど聞いた。

 

母は返事をせずに、しばらく僕を見つめるとゆっくりと腕を伸ばし、

僕を抱きしめた。

 

メキシコ人母子はしょっちゅう抱き合ったり、

キスし合ったりしていたけれど、

僕と母が抱き合うのはめずらしいことだ。

 

だって僕らは日本人同士なのだから。

 

だが、母は僕をだまって抱きしめていた。

自分の背がすでに、わずかだが母を越えているのをこの時、実感した。

 

 

しばらくして母は僕を放し、しっかりと目を見つめながら告げた。

 

 

「今朝から、どこにも姿が見えないの。」

 

「荷物とかは?」

 

「あるわ。着替えもぜんぶ。

 

 何にもなくなっていないけど、アンジェラと、

 わたしたちがクリスマスに贈った黄色い服だけがどこにもないの。

 隆ちゃんは何を贈ったんだっけ?」

 

 

隆ちゃんと呼ぶのは止めてくれ、とこの時ばかりは言わなかった。

 

「雪絵おばさんからもらったリボン・・・」

 

僕の答えを聞くと、母が不意に涙ぐんだように思えたが、

すぐに微笑んだ。

 

「そう・・・・。では、それもなかったと思うわ。」

 

僕はくるりと背中を向けるとキッチンを出て、

ほとんど足を踏み入れたことのない、

アンジェラにあてがわれた寝室に向かった。

 

 

 

そこは3畳ほどの、花模様の壁紙を貼った小部屋で、

ベッドと小さなテーブル、古い扉付きの棚が、

部屋の隅にひっそりと置いてある。

 

その棚はこの家を買った時からあったもので、

小さい頃、好奇心に駆られて扉を開けてみたものの、

古びた聖書が一冊入っていただけなのを覚えている。

 

主のいない、女の子の部屋にある棚を開けるのはためらわれたが、

どうしても確かめなければならない。

 

 

扉を開けると、母が用意したらしいふだん着が何枚かと

靴下、下着などがある。

 

メキシコには細かく引き出しのついた箪笥、というものがないので、

普通の人がどうやって衣類を収納しているのかわからないが、

アンジェラのは畳んで、きれいに重ねてあった。

 

明が貸したらしいドラえもんのマンガが何冊かと、

母が用意した小ぶりのリュックも置いたままだ。

 

これを見ただけでは、何が無くなって、何が無くなっていないのか、

僕が判断するのは無理だった。

 

ただ、僕の贈ったリボンはない。

 

十字架の入れられていたビーズの箱に詰められていた、沢山のビーズもない。

明がクリスマスに贈ったはずの、ドラえもんのフィギュアもない。

 

クリスマスの朝、着ていた黄色い服もない。

 

アンジェラはほとんど着の身着のままで、どこかへ行ってしまったのだ。

 

 

朝食は、食べる気になれなかった。

 

アンジェラが消えたのはモニカのせいだとわかっているのに、

モニカの作った朝ご飯など、悔しくて食べる気になれない。

 

同じメキシコ人なのに、なぜ、アンジェラを助けてやろうと思わないのだろう。

 

アンジェラはおとなしくて優しい働き者だったのに、

どうして途中から、あんなにも意地悪に接し、

ついには呪いの言葉までなげつけて追い出してしまうのか。

 

アンジェラの行き先が、楽しいところであるはずがない。

 

薄い綿の下着一枚で、顔に青あざを作って鶏小屋で震えていたのを

僕ははっきりと覚えているのに。

 

ひっきりなしに湧いて来る、そういった思いが、

僕の食欲を阻止し、生まれて初めて朝食を食べられなかった。

 

 

モニカのことは見ないようにしていた。

 

モニカはどこかコソコソと、僕の様子をうかがい、

覗き見るようにこちらを伺う視線を感じていたが、

断じて、僕から目を合わせる気などない。

 

明がときおり、僕を見たが、

特に何も言わず、黙っていつもの朝食を食べていた。

 

やがて僕があきらめて、フォークを手放し、

手つかずの皿を残して立ち上がろうとすると、

母が扉のところに立っていて、僕に向かってうなずき、

そっちへ来るように手招きしている。

 

誰とも口を利きたくなかったが、アンジェラのことがわかるなら、と

仕方なく母の後ろをついて行く。

 

 

 

客間を通り過ぎて、パティオまで来ると、

パティオに置かれた鋳物製のテーブルと椅子に座って、

父がコーヒーを飲んでいた。

 

僕を見ると手で向かいの椅子に座るように合図する。

 

だまったまま僕が座ると、隣に母が座った。

 

 

「隆。

 わたしたちは、アンジェラの保護を頼むために、

 昨日、知り合いに会うはずだった。

 だが、仲間の日本人家族に急病人が出て、

 その約束を延期せざるを得なかった。

 

 アンジェラは今のところ、うちで安全に保護されているのだから、

 急病人を優先すべきだと考えたんだ。

 だが、その間にあんな事件が起こって、

 アンジェラはいなくなってしまった。

 

 自分で出て行ってしまったのだと思う。」

 

 

うすうすわかっていたことだが、

父の口から改めて言われるとショックだった。

 

 

「お前がアンジェラを大事に思っていたのは知っている。

 わたしたちもあの子をきちんと保護して、

 守っていこうと考えていたから、この家で一緒に暮らした。

 

 だが、結果として間に合わなかった。

 わたしたちも残念だが、お前には詫びを言わなければならない。

 隆、アンジェラを守ってやれなくて、すまなかった・・」

 

 

父は椅子にすわったまま、僕に頭を下げた。

 

 

アンジェラはもういない・・・。

自分から、来たところへ戻って行ったんだ。

 

父の気持ちはわかった。

父はああして謝ってくれたが、父のせいでないのは僕にだってわかる。

 

だがアンジェラの失踪をもう過去のあやまちのように、

話しているのが、とても気になった。

 

 

「もう・・・アンジェラは見つからないの?」

 

 

父は僕から視線を外し、パティオから空を見上げた。

今日のメキシコは快晴で、空は真っ青だ。

 

 

「探したりしないの?」

 

「それはかなり・・・むずかしいと思う。」

 

 

それから父は、アンジェラを働かせていた者たちが、

執拗にアンジェラを探していたらしいこと。

 

アンジェラが必死に隠れていたにも関わらず、

結局見つかってしまい、アンジェラ自身、

もどるように警告を受けていたのかもしれない、と話した。

 

 

「警告って鶏の死骸をならべたこと?」

 

「それもだろう。

 わたしたちに対する嫌がらせであり、警告であり、そして

 アンジェラに対して、今後もこういうことを続けるぞ、という

 意思表示だったろうと思う。」

 

 

「じゃあ、犬は?」

 

「どれも推測でしかないが・・・。

 次は家の中の誰かに危害を加えるぞ、という脅しかもしれない。

 アンジェラはわたしたちの為に、自分から戻って行ったんだろう。」

 

 

アンジェラの青あざ、汚れた下着一枚の姿。

またあんな目に遭わされるのだろうか。

 

 

「パパ。お願い。

 アンジェラを探して。

 すごく辛い目にあっているかもしれない。

 僕とたった一つしか違わないのに」

 

 

父は畳んだ新聞に手を置いたまま、難しい顔をしていた。

 

 

「警察はたぶん助けてくれない。

 知り合いに頼んでは見るけれど・・・。

 あまり期待するな。」

 

 

父はぽんと僕の肩をさわると、立ち上がってパティオを出て行った。

 

ひとことも言わずに、そばで座っていた母が

「隆・・・」と僕を呼んで、僕のこぶしごと両手で包んだ。

 

 

「アンジェラは、あなたを守りたくてこの十字架を置いていったのよ。

 大切にしなさいね。」

 

 

この十字架が必要なのは僕じゃない。

 

辛いとき、涙がこぼれそうな時、怖いとき、

アンジェラはいつもこの十字架をぎゅっと握りしめて耐えていた。

 

これが無くなったら、どうやって彼女は生きて行くのだろう。

 

涙はこぼれなかった。

代わりに沸き上がって来たのは「怒り」だった。

 

アンジェラはまだ子どもなのに、

あんな境遇に甘んじなくてはならない怒り。

 

一度は僕らの家に逃れて来たのに、守ってやれなかった怒り。

 

自分が子どもで、どうしようもなく無力なのだという怒り。

 

 

他にも、モニカに対する怒り、メキシコという国に対する怒り、

一言も言わずに出て行ったアンジェラに対する怒りで、

僕は胸の中が焼け付くようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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