09 アンジェラ(最終話)

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もうすぐ、新しい年がやって来る。

 

いつもは運転手付きの車で市内まで買い物に出かけるのだが、

運転手のホセに、今日一日休みをやったとかで、

珍しくバスで市内の市場まで買い物に行った。

 

乗っているバスでは、流しのギター弾きの奏でるメロディが流れ、

乗客の中には、コインを入れてやる者もいる。

 

 

僕はあれから、空っぽになったような気分だった。

 

市内に買い物になど、まるで行きたくなかったが、

僕や明の日本の友だちにもメキシコのお土産を買いたいから、

ついて来なさい、と珍しく強く母に言われ、しぶしぶついて来たのだ。

 

 

 

外の景色を見るともなく、ぼんやり眺める。

 

クリスマスは過ぎたとはいえ、年末年始の休暇シーズンだ。

街はまだクリスマスの飾り付けをまとったまま、

行き交う人にも、うきうきした雰囲気があるのが、

子どもながらに感じられる

 

 

母の隣に座って、僕と同じく窓の外を眺めていた明が

いきなり外を指差して、

 

「アンジェラ!アンジェラだ!!」と大声を上げた。

 

急いで指差す方向を見ると、買い物客が行き交う雑踏に、

確かにアンジェラらしい少女が

背の高い痩せた男の隣で、手をつながれながらうつむいて、

とぼとぼと歩いているのが認められた。

 

 

「ママ、止めて!バスを止めて!

 降りなきゃ、どうしても今すぐ降りたいから、お願い!ママ!」

 

 

僕は席から立ち上がって、母親の手を強く揺すぶった。

 

一瞬、ためらった表情を見せた後、母は大声でバスの運転手に声をかけると、

バスはしゃっくりをしたように、大きく揺れて突然止まった。

 

母が何か運転手に詫びる言葉を言い、

手の中に幾ばくかのチップを握らせ、急いでタラップを降りた

 

 

降りてすぐ、僕と明は走り出した。

 

僕はアンジェラを見失うのではないかと、気が気ではなかったが、

バスが停まったのは、彼女たちの数メートル後ろで、

まだ二人の歩く姿が見えるところだった。

 

僕と明は「アンジェラ!アンジェラ!!」と大声を上げながら、

彼女に向かって駆け出した。

 

何度目かに声を上げたとき、アンジェラの足が停まって、

こちらを振り向いた。

 

あの大きな黒い瞳がおどろきでいっぱいにまで見開かれ、

隣を歩いていた男の手を振りほどいて、僕らに向き直る。

 

ばたばたとアンジェラの前に走り込み、

しばらくハアハア肩で息をついていたが、

ようやく、少し落ち着いてアンジェラに向かい合うと、

彼女のきれいな瞳がじっと僕を見つめているのに出会った。

 

隣にいた男は、急に彼女が立ち止まったので、

怒り声で先へ進むように促しているようだが、

アンジェラはつかまれた手を何度もふりほどき、

僕らを見つめるのを頑として止めなかった。

 

再び、男の怒号が響き渡って、アンジェラの手が強く引っ張られた時、

僕らの後ろからようやく追いついてきた母が

男に向かって、スペイン語で

 

「彼女はこの子たちの友だちだから、少し話をさせてやって欲しい」

 

と声をかけ、

 

「あなたは、この少女の何にあたるのか?」と尋ねた。

 

男は不機嫌そうに早口で答えたが、

その中に『父親』という言葉が何度か出て来たのはわかった。

 

母は黙って微笑み、

「クリスマスの時期だから、ちょっと憩いの時間をもらって良いか」

と声をかけ、さり気なく男の傍に近づいて、掌に何かを握らせる。

 

男はそれほど機嫌を直したようには見えなかったが、

ともあれ、黙ってアンジェラの手を放し、

反対の方向を向いて、タバコに火をつけた。

 

「アンジェラ・・・どうして・・」

 

黙って家を出ていったのか、と聞きたかったが、

この男がその事で彼女を責めるといけない、と思うと、

言葉がそこで止まってしまう。

 

 

アンジェラは見違えたようにきれいな服を着ていた。

 

全身真っ白いレースでできたワンピースで、

胸元には赤地に白い水玉のリボンが結んであり、

おもちゃ屋のショーウィンドウに飾られている人形のように、

華やかできれいだった。

 

どこか、花嫁のドレスみたいな感じがする。

 

長くゆるやかにウェーブしている黒髪は、

額の側だけ、細い三つ編みにして、

やはりきれいな赤いリボンで留めてある。

 

明はアンジェラに再会できた喜びに、無邪気に声をあげ、

 

「僕たち、とっても寂しかったんだ、アンジェラ!

 また一緒に遊べる?」

 

と訊いた。

 

アンジェラは柔らかく微笑むと明の手を取って、

 

「ありがとう、アキラ。

 今日は遊べないけど、わたしもいつか遊びたい」と言った。

 

「いつかっていつ?明日、明後日?

 僕たち、あともう少しで日本に帰らなくちゃならないからさ。

 いつ来られる?」

 

明が畳みかけるように尋ねる。

 

「約束できないの。元気でね。」

 

そう言うと、僕の方を見た。

 

もう会えないんだ。アンジェラは遠くに行かされる・・・

 

僕にはその事がわかった。

 

自分には、引き留めるどんな力もないのだと思うと、

情けなくて言葉が出なかった。

 

「タカシ、元気でね。」

 

アンジェラの白い手が僕の肩に触れ、あの甘い香りが僕の鼻をくすぐる。

 

後ろを向いていた男が鋭く短く、アンジェラに声をかけた。

その厳しく、支配的な様子に、

 

「本当にお父さんなの?」

 

思わず僕が訊くと、アンジェラはしばらく黙って、でもゆっくりうなずいた。

 

「もう行かなきゃ。タカシ、会えてうれしかった。」

 

アンジェラの目に涙が盛り上がって来ている。

楽しいところへ行くのではないことは、何となく察せられた。

 

また、男が短く声をかける。

アンジェラが手を振って、向こうを向きそうになった時、

 

「待って!」

 

ポケットの中にずっと持っていた、

しゃらしゃらと輝くあのきれいな十字架のペンダントを取り出し、

だまって、アンジェラの掌に埋めた。

 

「アンジェラが持ってて。アンジェラの神様が守ってくれるかもしれない。

 僕には・・・」

 

アンジェラを守ることもできないし、多分、僕には君ほど神様は必要ない。

 

アンジェラは掌の中にきらきらとたまったペンダントを見つめて、

もう一度握りしめ、ふっと笑うと僕に歩み寄り、

ふわっと柔らかくハグをすると、

僕の頬にキスをくれて、またにっこりと笑った。

 

アンジェラの躯から、甘酸っぱい香りが漂ってきて、

僕は胸が締め付けられるような気持ちだった。

 

「ありがとう、タカシ。」

 

「絶対にアンジェラを忘れない。元気で・・」

 

アンジェラの手を、僕の両手でしっかり包んで握りしめた。

 

アンジェラの黒い瞳から、透明な涙がふるふるっと零れ落ち、

僕の手の中の、白い小さな手が震えるのを感じたが、

それ以上何ができるだろう。

 

「アンジェラ!」

 

後ろにいた男がしびれを切らして、ついにアンジェラの肩をつかむ。

 

「アディオス、タカシ、アキラ!」

 

思い切ったように元気な声で別れを告げ、

大きく僕らに手を振ると、男の方に向き直り、

さっきよりもくっきりと顔を上げ、男と一緒に歩きだした。

 

「アンジェラ、アディオス!」

「アディオス、アンジェラ!」

 

僕と明が後ろから声を掛けると、一度だけ振り向いて、

花が咲いたように晴れやかな笑顔を見せると、

もう一度手をふって、人ごみの中に紛れてしまった。

 

 

母と明と3人、しばらくそこに佇んでいたが、

 

「あの子に・・・金の十字架を返せて良かったわね。」

 

ぽつんと母がつぶやいた。

 

小さくため息をついたのが聞こえたが、行きましょうという声に促され、

のろのろと市場へ足を向けたのだった。

 

 

 

 

 

 

僕はあのとき、彼女を救えなかった。

救うどころか、全く何もできなかった。

 

すがるような思いで、救いを求めてきた少女、

ほんの一時、共に過ごした少女。

それをみすみす自分の足で、元いた過酷な境遇へと舞い戻らせてしまった。

 

彼女がおそらくは礼の代わりに、

たった一つの、最も大切な持ち物を僕の為に残して行こうとしたように、

彼女の方が、僕らを思い遣ってくれていたのだ。

 

その十字架が本当に必要なのは彼女だったのに。

 

僕にできたのは、彼女の掌に返す金の十字架に込めて、

僕の気持ちを伝えただけだ。

 

それだって、どのくらい伝わったものか・・・。

 

 

以来、いつかメキシコに戻ったら、

アンジェラの神様が偶然、僕らを引き合わせてくれるのではないか、

と言う淡い希望をずっと胸に抱いていた。

 

 

 

 

それを打ち砕いたのは、翌年の「メキシコ大地震」だ。

 

死者2万人を出した、未曾有の大災害は、

首都メキシコシティを徹底的に破壊した。

 

僕らが借りていた家も倒壊し、

住んでいたホセとモニカ夫婦は、命からがら避難したそうだ。

 

父は偶然アメリカに出張していて、直接被災することはなかったが、

中南米担当役員として、社員や家族の安否を確かめるため

全力でエネルギーを傾けた。

 

当然、僕らがその年、メキシコでクリスマスを過ごす計画はなくなった。

 

 

あれから、アンジェラはどうなっただろう?

 

何度考えたかわからない。

 

想像していたのは、僕がメキシコシティを歩いていると、

偶然アンジェラが通りかかり、再会を果たす、

という夢のような場面だった。

 

そして、もしその時アンジェラが不幸だったなら、

今度こそ一瞬のためらいもなく、

どういう形でか、必ず保護して日本に連れて来る・・・

とまで思い詰めていた。

 

だが、アンジェラを探すどころか、

メキシコに行くことすら適わなかった。

 

彼女の救いはどこかから、やって来たのだろうか。

 

 

 

 

 

傍らのまどか、僕の大切な婚約者を見つめる。

 

そう言えば、彼女も最初は裸で、僕のところに飛び込んで来たんだな。

おまけに僕のシャツと短パンを身につけただけで、

礼代わりの指輪を残し、

うすら寒い夜の街に一旦は消えてしまった。

 

僕の元に来た不幸な女性に、

またも何もしてやれずに放り出してしまったかと、

自責の念に駆られていたが、幸いすこぶる元気な姿で

彼女はまた僕の前に現れ、

僕は彼女の指輪を返して、まどかを捕まえた。

 

 

逃がさないよ。決して・・・

 

 

ふっと笑って、まどかの髪を撫でる。

この柔らかくて、指を抜ける艶やかな感触がとても好きだ。

 

まどかは恥ずかしがって、僕の手からまた体を引こうとする。

 

 

ダメだよ、逃げようとすると捕まえるよ。

今、君の指にはまっているのは僕の指輪だ。絶対に逃がさない。

 

 

僕はまどかの肩に腕を回して、しっかり引き寄せる。

 

「隆さん・・・」

 

「また、『隆さん』なの?」

 

「ああ・・・あの」

 

そのうろたえたような、ちょっと困った顔が最高に好きなんだ。

 

「今日はクリスマスだから、泊まってくれるよね?」

 

「ええ?そんな、何にも準備してないのよ。」

 

「夜中の12時を過ぎたら『Merry Christmas』を言って、君にキスしたいんだ。」

 

「だって、クリスマスは木曜でしょ?日本の会社は休みじゃないのよ。」

 

「僕の会社は休みだよ。

 社長のマーク以下、あらかたの上司はクリスマス休暇でアメリカに帰ってる。

 僕は月曜日から、会社に行くけどね。」

 

「だからぁ、わたしの会社は・・・」

 

「わかってるよ。だから一日早くパーティしてるんじゃないか。

 夜中に『Merry Christmas Eve!』でもいいから言いたい。

 明日は帰るっていうなら、その分一緒にいて」

 

まどかの肩を抱いたまま、母に向かって大声で叫ぶ。

 

「ママ!まどかに泊まってもらってもいいでしょ?

 僕がベッドルームを整えるから、着るものを貸してやってよ。

 あと、僕が電話してご両親が心配するなら、ママから電話して。」

 

「大丈夫です!自分で電話します。」

 

まどかがあわてて言った。

 

「じゃ、決まりだ」

 

腕の中のまどかを捕まえ直して、額にキスをした。

 

「隆ちゃんたら・・・」

 

母が呆れたように、こっちを見たのがわかったが、知ったことじゃない。

 

「わかったわ。マッダレーナも泊まるの?」

 

母が明に聞くと、いや、僕らは帰るよ。

朝ご飯に食べるターキーを、少し貰って行きたいな。

 

はいはい・・・。

 

 

まどかはまだ、どことなくためらっている。

 

僕は世界中の人の幸せに貢献することはできないけど、

君だけは絶対に守ってみせる。

 

僕のお姫さま。

かならず、僕のそばにいてくれよ。

 

 

 

世界はあの頃より住みやすくなったろうか。

僕はあの頃より、少しは強くなれたろうか。

 

クリスマスというお祭りが、いっときでも争いを止める理由になるなら。

たったひとりでも誰かの幸せを祈るきっかけになるなら。

ほんのひとかけらでも温かい食べ物をいただく機会になるなら。

 

讃えられる幼子もきっと本望だろう。

彼は愛を教えたかったのだから。

 

同じ地球に暮らしている、全ての人へ

Merry Christmas and A Happy New Year.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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