02 星が出会う日 2

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「3年ぶりだね。」

 

金の縁取りのカップに注がれた、漆黒のコーヒー。

薄暗い店内には、バッハの旋律が流れている。

 

「ええ。フランスに留学なさる前でした。

 MBAはもうお取りになったんですか?」

 

「ああ、取れたよ。

 最初の半年はほとんど眠る暇もなかった。

 授業は英語だったけど、フランス語のクラスもあって、

 それが僕には辛かったな・・・・」

 

ジヌは3年前より、ぐっとたくましくなった。


渡仏前に会っていたときは、まだ青年の面差しがあって、

全体に優しい感じが漂っていたが、

今はもう大人の貫禄がほの見える。

 

「でも、ちゃんと取得されて、経営のお仕事も始められて、

 お仕事先からの信頼も厚いようですし・・・」

 

百合はまぶしいものを見るような視線で、

ジヌを見た。

 

「まだ始めて半年にもならない。

 今日の社長は韓国籍だから、

 僕に対して親しみを持ってくれているみたいだ。

 

 経営者としての手腕は見事だが、かなりワンマンで、

 部下に手をあげるのも見たよ。」

 

「は、そうなんですか?」

 

百合は驚いた。

カン社長は長年のお得意様だが、声を荒げたところなど、

一度も見たことがなかった。

 

「うん。だが相手の人も、翌日は、さらっとして、

 また社長に遠慮なく意見を言っている。

 社長の人徳なのか、お互い納得ずくのことなのかわからないが、

 そういう企業風土なのかもしれない。

 最初は驚いたけど・・・」

 

軽く笑うと、ジヌがコーヒーを飲んだ。

 

チェロの音色が、低く店内をうねっていく。

お客は二人だけ。


旋律がガラス窓をたたく雨の音と重なり、

ここが、どこか隔絶した場所のように感じられる。


二人の間に流れるのが、すれ違って過ごした過去の時間か、

現在の距離なのかは、わからない。

 

「百合ちゃんはどうしてた?」

 

ジヌの眼差しは相変わらず優しい。


高校生の時から、実の兄よりも百合を可愛がってくれ、

兄がいなくなってからは、何かと力になってくれた。


同じフィールドにいた親友の様子に気がつかなかったと、

ジヌが何度も自分を責めているのを、百合も知っていて、

言葉を尽くして慰めたこともあった。


そうやって、お互い、支え合って来たと思っていたのに。

 

「変わらないです。

 週に一度、母がお店で書道教室を開いていて、

 わたしが、お花の教室を開いています。


 平日のランチのお客様には、全員にご挨拶できないこともありますが、

 夜は玄関に立って、お客様をお迎えしています。

 母の具合が・・・それほど安定していないので・・・。」

 

その言葉だけで、ジヌにはわかってもらえたようだ。


長男を突然亡くしてから、女将である百合の母は精神を病み、

一時は入院もして、げっそりとやつれてしまった。


病院に通う百合を、ジヌが何度も送り迎えしてくれた。

 

 

 

そのジヌがMBA取得にフランスへ留学すると、

突然、聞かされたのも七夕の頃。


9月に始まる学校に合わせ、7月末には渡仏すると・・・。


笑顔ではなむけを言おうとしたが、言葉が出ず、

代わりに、一つぶ、涙がこぼれ落ちてしまった。


後はどうやっても止まらず、寂しいのと心細いのと、

ジヌへの気持ちが抑えきれなくなり、

百合は壊れたように泣き続けた。

 

「どうして?どうしても行くんですか?

 経営のMBAなら、日本でも取れるって言っていたのに。」


外国になんか行かないって言ってたのに。

 

ふだんなら決して言わない言葉で、

自分を置いて行ってしまうジヌを責め続けた。

 

「財務や経営の勉強をするなら、ヨーロッパだと思っていた。

 どうしようかずっと迷っていたんだが、

 思い切って願書を出したら、合格の通知が来た。


 行け、と背中を押されたような気がしたんだよ。

 やっぱりやってみようと思う。」

 

百合ちゃんを置いて行くのが辛いな・・・。


そう言ってジヌは、泣きじゃくる百合に手を伸ばし、

そっと抱きしめてくれた。


それが自分への好意からなのか、

亡くした親友の妹に対する憐憫なのか、

その時の百合にはわからなかった。

 

 

その後、出発までのわずかな期間、

二人で映画館に行き、

遠くの美術館までドライブに行き、

最後に梅雨明け前の、雨の海に行った。

 

兄が好きで、何度か一緒に来た海岸。


小さな湾になっていて、明るい空と、穏やかな波の、

こぢんまりした海水浴場だ。


ここも、あと一週間もすれば梅雨が明け、

海水浴客であふれ返る筈だったが、

二人で訪れたときはひっそりと人影もなく、

砂浜は吸い込むように雨をたたえていた。

 

「百合ちゃん・・・」

 

二人でひとつの傘に入って、

半分濡れながら、鈍色の海を見る。


兄もどこからか、この景色を見ているのだろうか。


来年は・・・一人で、ここへ来る勇気など出そうもない。

 

一つ傘の中、またも泣きそうになる百合の肩を抱いて、

初めてジヌの唇が重なった。


柔らかい感触から、百合の寂しさを溶かそうとする、

ジヌの優しさが流れ込んで来る。


涙を止めることはできなかったけど、

唇が離れた時、かすかに微笑むことはできた。

 

「百合・・・」

 

心配そうなジヌも百合の笑顔を見て、微笑み返した。


頭の上から雨の音が聞こえ、

傘から外は、白くけぶる雨の幕。


広い砂浜のほんの小さな空間に、寄り添って立つ。

 

だいじょうぶ・・・・

 

声に出さずに百合はささやいて見せた。


ほんとに?


ジヌが百合の濡れた頬に、指をすべらせた。


ほんとよ・・・。


唇の形でそう告げると、ジヌは穏やかに微笑んで、また口づけた。


今度は中々離れずに、何度も唇が触れ合い、

いつの間にか傘が飛び、二人、しっかりと抱き合っていた。

 

 

 

その後の時間は、百合の脳裏で何回も再生されたせいで、

いくぶん、現実ばなれして思える。


憶えているのは、ジヌがとても優しかったこと。


二人とも雨に濡れ、体が冷えきっていて、

乾いたシーツがとても温かく、

包んでくれる胸がとても近しく思えて、

何度も何度も顔をすりつけた。

 

「百合?」

 

初めてでも不思議なほど怖くなかった。


ジヌの体は、兄よりもっと強くて、たくましくて、

百合を求めて動き回った。


置いて行かれるのだという気持ちより、

自分にこんな思い出をくれたジヌに感謝したかった。


ジヌの匂い、首すじに触れるジヌの腕の硬さ、

ジヌのキス。

ジヌのきれいな顎のライン。


肌へとじかに感じる温もり・・・。


こんな時間の記憶があれば、

これからも生きていけるかもしれない。

 

 

「学校ってどの位で終わるの?」


「1年半。

 9月に始まって、ぐるっと1年経つと、ひと月夏休みが入る。

 そこからもう半年。

 試験に合格したら卒業。」

 

ふうん。

 

「きっと世界中から来た、優秀な人が沢山集まっているのね。

 そんな人たちの中で勉強するってすごいわ。

 そのまま、ヨーロッパで就職しちゃったりして・・・」


「ああ、首席で卒業すると、どこかへ推薦されるらしい。」


「そうなの・・・」

 

じゃあ、1年半で帰ってきてくれるとは限らないんだ。

やっぱり、もう会えないのかもしれない・・・。

 

それでも、傍にいる人は優しくて温かかった。


頭のてっぺんに優しい唇の感触を感じながら、

百合は、ひたすらジヌにしがみついていた。

 

 

 

 

「時々、きれいなハガキを頂きましたから、

 きっとまだ、フランスに居られるのだろう、って思っていました。」

 

「ああ、もっと連絡したかったんだけど、

 何を書いたらいいのか、途中からわからなくなってしまってね。

 MBAを取った後、1年の契約でフランスの会社で仕事をしてた。

 老舗の香水会社だよ。


 職人さんというのは、世界中、どこでも同じ雰囲気がある。」

 

「そうなんですか。いい経験をされましたね。」


「うん、いい会社だった。

 でも僕みたいに実務経験が浅いと、

 企業に入ると、その企業の目線になってしまう。

 だから日本に帰って、自分の立場で、

 いろんな経営に関わろうって決めたんだ。」

 

言葉は淡々としていたが、静かな決意が感じられた。


この人はいつもそうだ。


言葉には出さなくても、色んなことを考えていて、

ある日黙って実行する。

それも決然と・・・。

 

留学先や、香水会社での1年で人脈もつながり、

日本での開業に役立ったようだ。

 

「なんだか本当に立派になられて・・・・まぶしいです。」

 

もう、わたしとは違う世界の人になってしまったみたいだ。


自分にあるのは、古いお店と、小さな狭い閉じた世界。

その中をぐるぐると回って生きて行くしかないのだろうか。

 

 

しばらく続いた沈黙を破って、ジヌが聞いた。

 

「百合ちゃんは、もう決まった人がいるの?」

 

百合ははっと目をあげた。


何と言う残酷なことを言うのだろう。

この3年間、わたしがどういう思いで過ごしてきたのか、

まるで、わからなかったのだろうか。

 

「いえ、いません。そんな人。」

 

つんと答えた百合に、ジヌは柔らかな笑顔を向けた。


そうか・・・。


ジヌの表情に、百合の胸が泡立った。


どういう意味かしら?

 

 

バッハの無伴奏チェロは、

メンデルスゾーンのバイオリンに変わっている。


二人のコーヒーは冷めてしまった。


雨は相変わらず降り続き、

二人きりで、雨のドームにいるみたいだ。

 

「明日はお店に伺って、線香をあげさせて頂くよ。

 そうしようと思っていた。

 七夕で、あいつの命日だからね。」


「ありがとうございます。」


それに・・・・。

 

百合が口ごもったのを見て、ジヌが見とがめた。

 

「どうした?」


「いえ、いいんです。」


「何だよ。言いかけて止めるなんて、気持ち悪いじゃないか。」


「だって・・・」

 

言ってごらん・・・。

 

百合を正面から見つめたまま、ジヌが促した。

 

「それに・・・わたしの誕生日なんです。」


え?


そうだったのか。ずっと知らなかった・・・。

 

ジヌは驚いて、少し目を丸くしたが、

やがて、ほどけるような笑顔になり、

そのせいで、薄暗い店内がほんのり明るくなったような気さえした。

 

「どうして今まで教えてくれなかったの?」


「だって、兄の命日になったから。

 わたしのつまらない誕生日なんかより、

 ずっと深い意味を持ったんですもの」

 

そうか・・・それはそうだけど。

 

「とにかく、明日は午後一番に行くつもりだ。」


「あの、そんな時間、お仕事は大丈夫なのですか?」

 

ジヌがまた笑った。

 

「自分でやっているんだ。

 どうにでもなる。」


「うれしいわ。お待ちしています・・・」

 

驚くほど素直にその言葉が出た。

 

 

 

 

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